
そういえばしばらく仕事のことを書いてなかったっすね。
どうせ書くなら中途半端な内容になるのは嫌だけど、真面目に書くなら書くで時間かかるから面倒くさかったんですね。
自分を見つめなおすためにもここで一つ書いてみます。
ちょっと前にも施設長と話させてもらう機会があって、それもあってなおさら考えさせられたんですよ。
今回は問題行動からみた利用者との関わりについて。
(こう思ってる人がいるんだぐらいに見て下さい。)
前に書いたかどうか忘れましたが、うちの施設(知的障害者更生施設)には他の施設では断られるような重度の方が入所しています。
ただ知的障害の判定が重いというよりは、問題行動(なんらかの障害によって行動面に不適応が生じる“行動障害”とはまた別の話です。)が多くみられることで他の施設からは断られちゃう。そうゆう方がけっこういます。
例えば人に対する暴力・暴言、物を壊す……。うちのケースだと、現象が出るとけっこう激しいです。
知的な障害が原因の一つとなり、周囲の現象が自分で理解することが出来ずにパニックになり、自傷や他傷がみられることはありますが、ここで挙げる問題行動とは全く別の話。
(この場合は、その人が行うことや置かれる環境などの変化を前もって伝えて行動整理していくことなどで緩和していくことも可能だと思ってます。自閉症、自閉的傾向のある方のパニックがそれに近いと思います。)
そうじゃなく、育ってきた環境の影響などで問題行動が悪化してしまった方がけっこういますっていうこと。
親・祖父母からの虐待を受けたことで他人に対する防衛反応として暴力をふるってみたり、周囲の人の模倣が始まりだったり、気にして欲しい人(例えば母親、父親)の注目得るために暴れてみたり……。
それがたまたま知的な障害とリンクしたことで、こちらからのアプローチが難しく、そんな状態が改まりにくかったりと難しいケースになってしまったってこと。(全てのケースがそうじゃないですよ。汗。)
別に障害自体を育てた人のせいだと言っているわけじゃなくて、そしてなおかつ問題行動が起きること自体が悪いと言っているわけでもなくて、問題行動の背景には養護・教育のされ方、そんな大げさなもんじゃなくともちょっとしたしつけがどのようにされてきたかってすごい影響されるってことを書こうかなぁって。(もちろんぼくら支援員の関わり方もその対象内です)
自分たちの言うことをすんなり聞いてくれる子だったのに聞いてくれなくなった…。
物を投げたり発狂するようになった…。
そんな反抗期のような時期は発達段階で誰にでもあり得ることで障害の有無に関わらずごくごく自然なことですよね。
だから悪いなんて一言も言ってないんですよ。
言いたいのはそこじゃないんです。
(そして問題行動問題行動言ってるのでそんなに問題視してるの?ってひっかかる方もいるかもしれませんが、そう言った方が分かりやすいかなぁって感じで言ってるだけですんでお気になさらず。)
その時期がきたからには大切なのは問題行動が起きてからのアプローチの仕方。
悪いことは悪いときちんと伝えていくことが大切だということ。
ここで言う“けじめ”の部分。
それこそ伝え方は様々。
声に緊張感を持たせたり、顔の表情を険しくしたり、それこそ身体全体を使ってより分かりやすく、より伝わりやすい表現になるよう、支援員は日々試行錯誤しながら、互いに情報交換をしながら、1人1人に合った伝え方を模索してます。
ただ問題行動の現れ方一つをとっても様々ですもんね。
じわじわ出る人もいれば、無意識に我慢してたものが急に爆発する人。
後者の場合は特に戸惑いますよね。
急変した状況に驚き、アプローチをはかるどころか現象を受け入れるのだけでも大変という方も多いです。
しかも知的な障害を持つ方は理解力や自己統制力の発達の差もあり、その時期が10才の時かもしれないし30才の時かもしれないし50才の時かもしれない。
そしてその時期は1週間で終わるかもしれないし1年かかるかもしれないし10年続くかもしれない。
“今ごろになって?まだ続くの?”
それで戸惑わないという方がやはり難しいかもしれません。
しかしそこで間違っている行動は違いをはっきり伝えたいところ。
ただ1日中厳しい対応ばかりでは嫌になっちゃいますよね。
間違いを伝える時とそうでない時、出来たらメリハリをつけてより分かりやすくしたいところ。
そこで、ここで言う“認め”の話。
よく出来たときにはその行為をいっぱい認めるんです。
そうすることで、どういった行為が良いことなのか感覚的にわかったり、再確認することが望めます。
それこそ声と表情を柔らかくしたりと、けじめの時同様身体全体で表現していきます。
よくできているときこそ明るく接する。
“認め、けじめ、認め、認め、けじめ、認め…。”
こういう感覚を持ち合わせている人は、なんでそんなこと改まって書くの?と感じるだろうけど、ぼく自身がそういった感覚が薄い人だったからすごく最初苦労しました。
認め、けじめの対応をメリハリをつけて支援を行っている人とぼくとでは、利用者の状態がもろに違っていた。
単に経験値の違いだと思ったけど、じゃあその経験値の差って何の差って考えると、認めとけじめを通して築かれた信頼関係の差じゃないかと今でも感じています。
それだけ人って認められたいし、逆に否定されたくないんですよね。
そのバランスがうまく保たれると精神面で安定することにつながるのではと思います。
あと、こうゆうことって心掛けてないと以外とわかんなくなる感覚だとも思う。
出来るようになったことは一生できるのか、やらないようになったことは一生やらなくなるのかといったらそうとも限らない。
当たり前になった行動であればある程、意識が薄れてくものと思っていてもいいかも。
「あれ?母さんなんも言わないけど、これってやっぱり出来なくても良かったことなのかなぁ。じゃあやっぱり出来なくてもいいやぁ。」てどっかでなるかもしんないし、そのケースをこの何年かですごい見てきました。
だから普段から心掛けるようにしています。
この感覚の差が支援員と利用者との感覚の違いであり、利用者の目線にたって支援するという解釈の1つでもあるんだと思うし、逆に身近な感覚とも思う。
(あと、認め?けじめ?上から目線?って思ったかもしれないけど違いますよ。人として良いことと悪いことをしっかり伝えてくれる存在は生きてる間は必要だと思うんです。
警察がスピード違反取締してないとみんなスピード出しちゃうのとおんなじように。
人から特技を褒められたらうれしいし、些細でも自分の長所を見つけてもらったらうれしいし。
つまりみんな一緒なんですよね。)
………って、けっこう長くなっちゃった。汗。
なんかもうちょい書きたいけど収集つかなくなりそうだし、とりあえずここらで一旦やめときます。
家なり施設なりで大切にしてることも方針もそれぞれ違うだろうけど、手応え感じてるし、これから先どんな分野に進むか分からないけども、とりあえず自分の感じてることを残してみたくなって書きました。
言ってること分かったり分かんなかったり、
考え方の違いで読んでイライラしたりとか、反応は色々だろうけど、
今のところそんなことです。