みんな笑ってるように見える。





ぼくの担当利用者が書きました。
ともだちの絵だとか。

とうとう我が入所施設にも新型インフルエンザの波がやってきました。
利用者が順番に熱発してます。
感染者とそうでない利用者の生活空間を別にしたり、食事の時間をずらしたりで移動にてんやわんや。汗。
1人1人の処置の仕方や日課の変動、その対応の変化を随時現場の職員間で情報交換しなくちゃいけなくててんやわんや。汗。
そしてとうとうその波は職員にもきました。
現時点で4人は感染し熱発。
これから増えていくかも…。
しかし入所施設。
利用者の生活を成り立たせるためにはなんとかシフトを回さなければなりませぬ。
まだ元気な私は休み返上で出勤します。
少なくとも10連勤になります。
走っていて体力がついてきたせいか発症はしてません。
ただ、“まだ”発症してないというだけで、体内にはインフルエンザウイルスはきっと侵入していることでしょう。
やつらはきっと潜んでいることでしょう。汗。
今日は連勤5日目。
新型インフルエンザ患者に接して5日目。
それがあと5日。
隙を見せたら私も発症することでしょう。
万全を喫してとりあえず次の休みまでは踏ん張ります。
(鼻・喉うがいしてます。手も本当にこまめに消毒してます。)
(できるだけ睡眠・栄養をとって疲れを残さないようにしてます。)
(免疫力アップにヤクルトなどに入ってるシロタ株、殺菌にお茶がいいらしいですよ。)
変わりのきかないこの仕事。
私もそうなのって方いっぱいいらっしゃいますよね。
頑張りましょう。
乗り切りましょう。
ウイルスなんかにこの身体やらんぞ!!
(あ~るんさんのコメントを受けて)
そうなんですよね。
家族とスタッフの思いの方向性が一緒なら…とのコメントでしたがまったくその通りで、家族の理解がないと“けじめ”の部分で非常に誤解を受けやすいんですよね。
うちの場合は家庭では手に負えない、他では受けてもらえない、むしろしっかり躾けて下さいという保護者も多く、支援員としても躊躇することなく間違ったことをはっきり伝えることが出来たりします。
“うちは楽しくやるときもめいっぱいやるけど、間違ったことをしている時はしっかり伝えます”と、事前に言ってたりもしますしね。
ただ通所の場合だとなかなか難しいことも…。
自分で見ることが出来ているという自信も手伝い、自分の家でのやり方、育て方を保護者が強く持っていらっしゃる場合には施設側の対応とのずれに不満を感じたり、自分のやり方を施設側に求めたりするケースも多いです。
なおかつ、施設と家庭で利用者も2つの顔がありますから、施設でしっかり間違いを伝えていっても家庭で異なる対処法がなされると効果は薄れてしまうこともあります。(本人のなかでもわかりにくいですし。)
その悪循環から成果が表れずに、逆に「施設の対応が悪いんだ!」で終わってしまうこともあります。
けじめという点では各家庭で基準もそれぞれ。難しい…。
これを読む限り施設のやり方が正しくて、そのやり方に満足しない保護者がいて困るという記事になってしまっていそうで嫌ですがそうではなく、言いたいのは同じ方向性で対応していきましょうってこと。
支援員一人で頑張っても全然結果は出ないし、家庭で全部背負い込む必要も全くない。
第三者の手を借りて成り立つことならば借りるにこしたことないんだから、両者で協力してよりよい状態を作りましょう。と思うんです。
ただ家族と支援する側が同じ方向性で…というのは理屈ではシンプルなことだけど、事前に互いの価値観を確認をしなきゃいけないし、随時互いに情報交換をしていかなければ効果も薄れるし(こういう対応した結果家ではこうだった、施設ではこうだった→じゃあ今後あぁしていきましょう的な。)、利用者も変化していくからそれも踏まえた価値観の確認も互いに随時とっていたなければならないし…。
シンプルなことだけどそのプロセスではすごく労力が必要な大変なこと。
ただ成果が出てくれば互いにやりがいが見出せることでもありますよね。
色々試行錯誤していく中で、成功例、そして失敗例も互いに情報交換をしながら互いに利用者への理解を深めていくなかで、信頼関係につながり、その二者間を行き来する中で利用者も安心して生活していける土台がつくられるんだと思います。
とはいうものの、自分で書いてて大変なことだなぁと思ってしまうけど、でも今の施設の土台を作った人も頑張って今の状態を作り上げたんですもんね。
いやぁたいしたもんだ。
おれも日々頑張んなくちゃ。。

そういえばしばらく仕事のことを書いてなかったっすね。
どうせ書くなら中途半端な内容になるのは嫌だけど、真面目に書くなら書くで時間かかるから面倒くさかったんですね。
自分を見つめなおすためにもここで一つ書いてみます。
ちょっと前にも施設長と話させてもらう機会があって、それもあってなおさら考えさせられたんですよ。
今回は問題行動からみた利用者との関わりについて。
(こう思ってる人がいるんだぐらいに見て下さい。)
前に書いたかどうか忘れましたが、うちの施設(知的障害者更生施設)には他の施設では断られるような重度の方が入所しています。
ただ知的障害の判定が重いというよりは、問題行動(なんらかの障害によって行動面に不適応が生じる“行動障害”とはまた別の話です。)が多くみられることで他の施設からは断られちゃう。そうゆう方がけっこういます。
例えば人に対する暴力・暴言、物を壊す……。うちのケースだと、現象が出るとけっこう激しいです。
知的な障害が原因の一つとなり、周囲の現象が自分で理解することが出来ずにパニックになり、自傷や他傷がみられることはありますが、ここで挙げる問題行動とは全く別の話。
(この場合は、その人が行うことや置かれる環境などの変化を前もって伝えて行動整理していくことなどで緩和していくことも可能だと思ってます。自閉症、自閉的傾向のある方のパニックがそれに近いと思います。)
そうじゃなく、育ってきた環境の影響などで問題行動が悪化してしまった方がけっこういますっていうこと。
親・祖父母からの虐待を受けたことで他人に対する防衛反応として暴力をふるってみたり、周囲の人の模倣が始まりだったり、気にして欲しい人(例えば母親、父親)の注目得るために暴れてみたり……。
それがたまたま知的な障害とリンクしたことで、こちらからのアプローチが難しく、そんな状態が改まりにくかったりと難しいケースになってしまったってこと。(全てのケースがそうじゃないですよ。汗。)
別に障害自体を育てた人のせいだと言っているわけじゃなくて、そしてなおかつ問題行動が起きること自体が悪いと言っているわけでもなくて、問題行動の背景には養護・教育のされ方、そんな大げさなもんじゃなくともちょっとしたしつけがどのようにされてきたかってすごい影響されるってことを書こうかなぁって。(もちろんぼくら支援員の関わり方もその対象内です)
自分たちの言うことをすんなり聞いてくれる子だったのに聞いてくれなくなった…。
物を投げたり発狂するようになった…。
そんな反抗期のような時期は発達段階で誰にでもあり得ることで障害の有無に関わらずごくごく自然なことですよね。
だから悪いなんて一言も言ってないんですよ。
言いたいのはそこじゃないんです。
(そして問題行動問題行動言ってるのでそんなに問題視してるの?ってひっかかる方もいるかもしれませんが、そう言った方が分かりやすいかなぁって感じで言ってるだけですんでお気になさらず。)
その時期がきたからには大切なのは問題行動が起きてからのアプローチの仕方。
悪いことは悪いときちんと伝えていくことが大切だということ。
ここで言う“けじめ”の部分。
それこそ伝え方は様々。
声に緊張感を持たせたり、顔の表情を険しくしたり、それこそ身体全体を使ってより分かりやすく、より伝わりやすい表現になるよう、支援員は日々試行錯誤しながら、互いに情報交換をしながら、1人1人に合った伝え方を模索してます。
ただ問題行動の現れ方一つをとっても様々ですもんね。
じわじわ出る人もいれば、無意識に我慢してたものが急に爆発する人。
後者の場合は特に戸惑いますよね。
急変した状況に驚き、アプローチをはかるどころか現象を受け入れるのだけでも大変という方も多いです。
しかも知的な障害を持つ方は理解力や自己統制力の発達の差もあり、その時期が10才の時かもしれないし30才の時かもしれないし50才の時かもしれない。
そしてその時期は1週間で終わるかもしれないし1年かかるかもしれないし10年続くかもしれない。
“今ごろになって?まだ続くの?”
それで戸惑わないという方がやはり難しいかもしれません。
しかしそこで間違っている行動は違いをはっきり伝えたいところ。
ただ1日中厳しい対応ばかりでは嫌になっちゃいますよね。
間違いを伝える時とそうでない時、出来たらメリハリをつけてより分かりやすくしたいところ。
そこで、ここで言う“認め”の話。
よく出来たときにはその行為をいっぱい認めるんです。
そうすることで、どういった行為が良いことなのか感覚的にわかったり、再確認することが望めます。
それこそ声と表情を柔らかくしたりと、けじめの時同様身体全体で表現していきます。
よくできているときこそ明るく接する。
“認め、けじめ、認め、認め、けじめ、認め…。”
こういう感覚を持ち合わせている人は、なんでそんなこと改まって書くの?と感じるだろうけど、ぼく自身がそういった感覚が薄い人だったからすごく最初苦労しました。
認め、けじめの対応をメリハリをつけて支援を行っている人とぼくとでは、利用者の状態がもろに違っていた。
単に経験値の違いだと思ったけど、じゃあその経験値の差って何の差って考えると、認めとけじめを通して築かれた信頼関係の差じゃないかと今でも感じています。
それだけ人って認められたいし、逆に否定されたくないんですよね。
そのバランスがうまく保たれると精神面で安定することにつながるのではと思います。
あと、こうゆうことって心掛けてないと以外とわかんなくなる感覚だとも思う。
出来るようになったことは一生できるのか、やらないようになったことは一生やらなくなるのかといったらそうとも限らない。
当たり前になった行動であればある程、意識が薄れてくものと思っていてもいいかも。
「あれ?母さんなんも言わないけど、これってやっぱり出来なくても良かったことなのかなぁ。じゃあやっぱり出来なくてもいいやぁ。」てどっかでなるかもしんないし、そのケースをこの何年かですごい見てきました。
だから普段から心掛けるようにしています。
この感覚の差が支援員と利用者との感覚の違いであり、利用者の目線にたって支援するという解釈の1つでもあるんだと思うし、逆に身近な感覚とも思う。
(あと、認め?けじめ?上から目線?って思ったかもしれないけど違いますよ。人として良いことと悪いことをしっかり伝えてくれる存在は生きてる間は必要だと思うんです。
警察がスピード違反取締してないとみんなスピード出しちゃうのとおんなじように。
人から特技を褒められたらうれしいし、些細でも自分の長所を見つけてもらったらうれしいし。
つまりみんな一緒なんですよね。)
………って、けっこう長くなっちゃった。汗。
なんかもうちょい書きたいけど収集つかなくなりそうだし、とりあえずここらで一旦やめときます。
家なり施設なりで大切にしてることも方針もそれぞれ違うだろうけど、手応え感じてるし、これから先どんな分野に進むか分からないけども、とりあえず自分の感じてることを残してみたくなって書きました。
言ってること分かったり分かんなかったり、
考え方の違いで読んでイライラしたりとか、反応は色々だろうけど、
今のところそんなことです。

ぼくに実習生がついた。
初めて受け持つ実習生。
もう終わったけどね。
保育士資格を取るのに必要な実習みたい。
かつて自分もやった施設実習。
実習生と色々やりとりをしていると、
かつての自分を思い出す。
実習は、保育所実習も施設実習もよく覚えている。
場所も施設の空気も、どんな職員がいて、利用者1人1人どんな顔つきをしていて、どんな人だったのかも。
自分でも実習にのめり込んで取り組んでたと思うし、毎日が刺激満載だった。
大変だったけど。
施設実習はそこの主任が担当してくれたんだけど、なかなかその人がいいオーラを醸し出してた。
知的障害者の入所施設ってそんとき初めて行ったんだけど、
その主任のおかげで施設に対して楽しいイメージを持てた。
重度の人が多かったけどみんな楽しく過ごしてるんだ。
そして楽しんでもらえるように職員頑張ってんだ。ってね。
自分も実習生にとってそんな存在になりたい。
せっかく来てくれるんだから楽しんでって欲しいし、なんか掴んで帰って欲しい。
なんだかそんな心境になった。
あと自分が日誌にコメントを書く立場になるにあたって、
実習が始まる前には、自分がどんなコメントをもらっていたのか見てみたくなって、
日誌を引っ張りだして見てみたりもした。
みんなコメントがうまい。
あったかいコメントばかり。
コメントを読んで頑張ろうって気になったもんだ。って思いだした。
ってことでコメント書きも熱入れた。
利用者について、支援について、できるだけ分かりやすく。
1日1日疑問点はなかったか汲み取ってできるだけ丁寧にそれに答えてった。
利用者を見ながらのその作業はちょっと大変だったけど、やっぱしなんか掴んで帰って欲しかった。
なかなか実習生も関わり方が分からずに戸惑う場面も多かったみたいだけど、
達成感に満ちた表情で実習を終えてった。
ほっとしたという気持ちもあったろぅし、
やっと解放されるって気持ちもあったろぅけど。笑。
不慣れな中で、彼女は彼女なりに頑張っていたとは思う。
無事実習を終えたこともよかったけど、
そんな彼女をみて自分も達成感を感じた。
そして逆に「実習担当が鶏だいこさんでよかったです。」という言葉までもらっちゃって。
なんか素直に嬉しかった。
何かしらは伝わったかなって。
ちょこちょこトラブルはあるにせよ、みんな笑顔で過ごしてるんですよってゆうことが少しでも伝わったらそれでいいんだけど。
自分が実習生だった頃の熱意を再び感じるとともに、達成感までもらっちゃって。
コメント書くのは大変だけど。
実習生持ってよかった。

この前NHKの特集でやってた番組を偶然見た。
“「見えない」を生きる”
中途で視覚障害になった人達のドキュメント番組。
バイク事故で…、病の後遺症で…、視力が急激に衰えていき、
今まで見えていたものが見えなくなる。
中途障害がいかなるものか、ありのまま放送されていた。
見たのは途中からだったけど、最後まで見入ってしまった。
すごいリアルだった。
学生のころの同級生と結婚、2児の父になり、
中学校で教諭をし、野球部の顧問だったという男性。
病がきっかけで目が見えなくなった。
“なんで俺だけが…”
そんな思いが彼を支配していく。
教職をやめ、家に閉じこもる生活。
抜け出せないやるせなさを妻にぶつけ、
妻の励ましに耳を傾けることはない。
“お前は聞こえるだろ!俺の気持ちが分かるかっ!”
いっそのこと楽に…
何度もそう考えたという。
そんな生活を繰り返すなか、
妻のすすめもあって家族を離れて、生活支援、就労支援をともに行う視覚障害を持った人たちの入所施設に入ってみることに…。
見えないこともあり、はじめは建物内部の作りを覚えるのもやっとのこと。
トイレはどこ?食堂は…??
職員の手をかりる日々が続く。
けれども次第に1人でできることも増えていく。
自分で風呂場に行き、洗体して湯船につかる。
点字(点の羅列パターンで表示される文字)を指で読み取り、缶ジュースの中身が分かる。
当たり前にやっていたこと、わかっていたことが、
再び自分のものになっていく。
何よりも、境遇が同じの人に心の内を見せられる。
悪い冗談を言い合ったり、時に遠慮なくヘコんだり、前を向いて励まし合ってみたり…。
“障害もって不幸やと思ったけど、なんか代わるもんがあるんでしょうね。
一緒に居てくれる人がおったり、応援してくれる人がおったり…
幸せですね。”
“お〜お前そんなん言うたの1年ぶりやなぁ。
それまでは周りの雑音が全部自分の悪口に聞こえるとかな、そんなん言ってたけどな。
雑音でわけわかんなくなってめまいがするとかな。
そんなんだった。”
“う〜ん…。
そうでしたねぇ。
あのころは全然前なんか見れなかった。
でも近頃変わってきましたよ。
まだ2回の表になったぐらいでしょうけどね。
粘りますよ。ねちっこくね。”
そんな出会いがあるこの施設も、一定期間を過ぎると退所しなくてはいけない。社会の中で生活していくようになる。
就労はあんま師などが主だがもちろん皆がなれるわけではない。
必然的に障害年金で暮らすケースが多くなっていく。
障害は身近。
人生80年とよく言うけれど、その途中で身体のパーツパーツが弱っていくのは当たり前のこと。
それが目か耳か、
筋肉系か臓器系か、
神経系かはたまた心理面か…。
障害は身近。
人の弱みをどうこう言うべきじゃないし、自分の弱みを恥じたり劣等感を感じる必要もない。
人は人に言っていないだけで、いっぱい弱みを抱えているもんだと思うし、
実際そうだし。
弱みがあって当然だし、
それが宿命だし。
俺も見ていて、自分頑張らなきゃと励まされた。
励まされたと言ってその人にどう思われるか分からないけれども、
人が何かを克服する姿をみたらやっぱし力もらえる。
自分を奮い立たせて、
必死に再生の道を歩んでいる。
再生って言葉。
“再び生きる”、“再度生き返る”
どっちがメインの意味か知らないけど、
すごく強い言葉だと思う。
再び生きる!
再度生き返るっ!!
きっかけがこうゆうテレビを偶然見ることだとしても、
こうゆうちょっとしたことがきっかけで自分も再生しようと思えたら、
なんかちょっと強くなれた気がする。
再び生きる!
再度生き返るっ!!
ちょっとしたことをきっかけに。
ちょっとしたことに便乗して。
俺も。
あなたも。
まぁこんな具合です。

支援って何だろう?
自分が利用者に対して満足な支援をしているかというとそうじゃない。
日々の生活を利用者と共にする中で、
人間の影の部分をこそ理解していないとダメだと感じる。
ちょっかいや暴言などの問題行動が少ないなど、
支援しやすい人を支援する事で満足してたんじゃダメだと感じる。
人を妬んだり、人を見下したり、自分勝手な考えを持ちがちだったり、横柄な態度をとりがちだったり。
そうゆう人間特有の感情をこそ理解し、
いかに緩和できるか、緩和しつついかに有意義なものを見い出せていけるか…。
対人面でのオールマイティーさが求められるところ、
自分の欠けている部分を感じる。

ちいさい頃、
物の気持ちが分かるような気がしなかった?
折れたクレヨンが悲しんでいるように見えたり、
風でなびく鯉のぼりが楽しそうに見えたり。
単なる擬人化ってだけじゃなく、
まるでそれが自分と同じ感情を持っているかの様に。
まるで全く自分と同じ存在のものの様に。
またはそれが友だちの1人であるかの様に。
ちいさい頃、
物の気持ちが分かるような気がしなかった?
僕の施設に来てる女の子を、
彼女の家に送るとき、
彼女は彼女のランドセルと傘にも、
自分と同じように、大切そうにシートベルトを締めた。
彼女は自閉的な面があるから、単純にその行動が物の擬人化とは限らない。
彼女はランドセルと傘をどうゆう目で見ているのだろう。
自分と同じ存在なのか。
彼女の1人の友だちなのか。
はたまたそれは車に乗るものはシートベルトを締めるという自閉的なこだわりの1つに過ぎないのか。
でもでも大切そうに扱ってたもんなぁ…。
などと、彼女の頭の中を考えていくと面白い。
何はともあれ、
とてもかわゆぃ感覚だと思った。
なんかあれですねぇ。
前の記事だいぶ暗い感じに仕上がってましたね。
いろいろ勘違いさせちゃってすいません。
ぼくがかなり悩んでいると思ったかた。
“かなり”はつきません。
(ちょっと思うところはありますが… ^O^;)
福祉系の仕事は……と思ったかた。
なかなか楽しいですよ。
(福祉業界多々きつい現状抱えておりますが…)
前の記事が福祉業界へのイメージにつながっちゃったかた。
言いたいこと違うんす。
今の業界の仕事がきついっていうのじゃなくて、
今の職場がぼくの持っていた福祉観と多少誤差があるから、
その誤差にちょっと思うところがあるんですよ。
勘違いさせちゃってすいません。
もっとも。
福祉観だなんて大それたものじゃありませんけどね。
ただ、
いままで関わってきた現場と今の現場のニーズがぜんぜん違っていたから、
自分が無条件に正しいと感じていた考えが、
全てのケースに当てはまるわけじゃないということに気付かされたちゅうことと、
自分の思ってたのが駄目だとしても、
今の現場のやり方が最適の方法かと言われるとそうじゃないんじゃないかと感じたっちゅうこと。
4月から職場に慣れるのにいっぱいいっぱいで、
ゆっくり考える精神的余裕がなかったから。
なんとなく心がモヤモヤして、
なんとなくマイナスちっくな記事を書くことにつながってしまったということでした。
その後。
ちょこちょこガス抜きをしながら、
プラスちっくになってきた自分でした。
考えはまだまとまってないですけどね。
まあゆっくりいきます。
とんぼがとまっちゃうくらいに。
いやもうちょっとだけはやく。
はじめに、“プロフィール”でも自分のことを福祉系仕事人とかって書いていますが、ぼくは福祉業界では全くの新人同様です。
あくまでも、この業界の中で立派な仕事人になりたいという願望を込めて書いたにすぎないので、ぼくの仕事についての記事や福祉についての記事は、「なんか暑苦しい新人がほえてるぞ…」的な遠めな目線で見てもらって大丈夫です。
特に福祉系の仕事をされている人にとっては「ちょっとそれ甘いんじゃない!?」とか、「それは現実性に欠けるなぁ。」とかいうことを書くこともいっぱいあると思います。
ただ書くからには、ぼくなりに率直に、かつ真剣に書こうとは思ってるんで、そこらへんはご了承いただきたいなと思うしだいでございます。
さてはて。
“福祉”といっても、高齢、障害、児童、低所得と、いろんな切り口があるけど、一応ぼくは知的障害を持つ人たちが暮らしている施設で働いているから、主に書くのは障害っていう観点から、障害にも身体障害、精神障害とあるけど、特に知的障害の観点から記事を書くことが多くなると思います。
でもでも、それはあくまで分類上のはなし。
そしてそもそも福祉って言葉もあくまで分類上のはなし。
福祉って“社会で暮らしている人たち全てが暮らしやすくなる”ためのものだと思うんです。
なんか特別な人たちが対象みたいなイメージがあるけどね~。
子どもたちや高齢の方の問題も叫ばれてるけど、自分たちも前は子どもだったし、いずれ年だって必ずとっていく。 障害ったって明日には自分もなんらかのハンディを持つかもしれない。
社会に生きにくさを感じている人がいるとすれば、自分もいずれ同じ生きにくさを感じるかもしれない…。
だとしたら、社会がどうあるべきかとか、どうなったら人が生きやすいか生きにくいかを考えていくことが福祉を考えていくことにもつながるし、自分たちを考えていくことにもなるじゃないですかぁ!!
だから考えた方がいいなぁと思うわけなんです。
これから何回か福祉のことを書くと思います。
たまにのぞいてみてください。
★ 今日の一枚 ★
友人の、クウラのフィギュア。(ドラゴンボールより)
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